特集/異文化を旅する若者たち

「異教徒」の谷に魅かれて

会いたい人々の「社会」に通い続ける

丸山純(広告ディレクター・「地平線会議」同人)

東海教育研究所 『望星』 1985年10月号 pp48-51




 谷間の夕暮れは早い。山の端に太陽がかかったなと思っているうちに、谷間はストンと薄暗くなる。谷の奥にそびえる5000メートル級の連山から涼風が吹きはじめると、強烈な日射しを浴びて日中は静まりかえていたカラーシャ族の村も、見違えるように活気をとり戻す。水汲み場へ向かう女たちのおしやべり。子供の口喧嘩。鳴きわめく山羊、牛、犬。マキを割る斧の響き………。部屋の外に椅子を持ち出して日記を書いていると、居候先の親父、ブンブールが2階から声をかけてきた。「おい、日本人の兄さん。ワインを飲まないかい」。

 急いで彼の待つベランダへ昇っていくと、ちょうど地酒の赤ワインをあけるところだった。「2週間前に仕込んだやつさ」と言いながら、泥で汚れた茶碗にごぼごぼと注いでくれる。甘い香りがあたりに漂う。ちょっと渋いけれども、なかなかの味だ。「ポー・プルシュト(大変結構)」とカラーシャ語で答えると、一人前に民族衣装を着こなした幼い娘たちがきゃっきゃっと笑う。また発音がおかしかったのかな。

 こうしてさも当り前のような顔をしてカラーシャ族のワインを飲んでいるのが、なんだか夢のようで、さまざまな思いにとりつかれてしまうのだ。



“あこがれの秘境”に踏み込んで

 そもそもこの初めての旅立ちを思いたったのは、7年前。大学も4年生になり、みんなが就職を考えはじめている時だった。でも、まだぼくは就職活動をする気になれず、もう少し将来について考えるための時間を稼ぎたいと思っていた。どこかを1、2ヵ月ぶらついてこれれば、それで満足するつもりでいたのだ。

 ところがある日、そんな気持ちが突然変わった。高校時代に読んだ「アレキサンダー大王の子孫が、パキスタンの山奥に隠れ住んでいる」という雑誌記事を思い出したからである。パキスタン北部のヒンズークシュ山脈に住むカラーシャ族は、総人口2000人にも満たない少数民族だが、紀元前327年にこのあたりへやってきたアレキサンダー東征軍の末裔といわれているという。古代ギリシャとパキスタン−−このまったく対照的な取り合わせがおもしろかったし、何よりも彼らは、謎の多神教を奉じているために、周囲のイスラム教徒から「異教徒」と呼ばれているという記述が興味深かった。古代ギリシャの神々をそのまま信仰しているのではないか、などと考えて異常に興奮してしまい、カラーシャ族の住む3つの谷を訪れ、彼らの文化を調べてくる決心をしたのである。



 そして1978年の8月、3つの谷のうちの一つ、ここムンムレット谷へとやってきたわけだが、到着直後はショックの連続だった。カラフルなテントが草地に林立して、まるで夏のキャンプ村のようだったし、カメラを下げた団体さんやヒッピー風旅行者が、谷にあふれている。高校1年生以来の“あこがれの秘境”は、一大観光地へと変貌していたのだ。

 カラーシャ族の方でもすっかりスレてしまって、写真撮影はもちろん、ちょっと村に立入っただけでも金をしつこくねだる。英語を話せるカラーシャ族もいて、法外なガイド料を要求されたり、嘘や間違いだらけの情報を教えられたり、ずいぶんと悩まされた。

 それが、いまヒゲについたワインをボロボロの袖口でぬぐったこの男、ブンブールと偶然出会ったことで、すべてうまくいくようになった。彼の誘いで村に入り、衣食住を共にしてみると、変わったように見えるのは観光客相手の表面的なことだけで、実際の生活は昔のままであることがよくわかる。毎日川沿いのブンブールの畑でトウモロコシの刈り入れを手伝ったりしているうちに、村人たちはぼくに対する態度を少しずつ変えはじめた。



 これはおそらく、彼らの言葉を習ったことが、大いに役立っているのだろう。ブンブールの知っている50あまりの英単語を頼りに、カラーシャ語の意味を尋ねながら、語彙を増やしていった。辞書も文法書もなく、最初はどれが動詞だかも見当がつかない。文字を持たない言語なので、表記法も自分で工夫するしかなかった。

 日本語にないむずかしい発音が多くて、最初の1ヵ月は、相手が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。しゃべろうとしても、単語が断片的に出てくるだけで、もどかしい。

 ところが、書きとめた単語数が200を越えたとたん、ぼくの耳は一つひとつの単語を間き分けられるようになっていた。そしてこのことを意識した数日後、いつのまにかカラーシャ語のセンテンスをしゃべっている自分に気づいた。ごく自然に、言葉が口から出てくる。相手の心と自分の思いが、日本人どうしと同じくらい通じあえる手応えを感じ、村人をつかまえては、おしゃべりを挑んだ。ページをめくるように次々と“世界”が広がっていったあの不思議な感覚は、一生忘れることができないだろう……。

 日本を離れて以来、めまぐるしく変化したこの2ヵ月のことをあれこれ考えているうちに、夕闇が深まり、酔いが心地よくまわってきたようだ。「これでおしまいだ」と言いながら、澱で濁った4杯目のワインを、ブンブールがそっと注いでくれた。



 独特の多神教を信じるカラーシャ族の1年は、大小さまざまな祭りや宗教行事によって彩られている。歌と踊りを伴うものが、年間90日近く。小規模な儀礼は、しばしば行われている。これらの祭りのうちで最大の規模と内容を誇るのが、12月中旬のチョウモス祭である。祖霊の供養や通過儀礼などの各種の行事が、2週間にわたって昼夜くりひろげられ、人々はろくに眠らずに、歌い踊り、神に祈る。山羊が次々と捧げられ、カラーシャであることの証をたてるために秘儀をとり行なう。

 チョウモスでは、部外者は完全に村から締め出されるのだが、ブンブールがあちこち働きかけてくれたおかげで、このぼくも晴れて祭りへの参加を許されることになった。そこで巨大な山羊を1頭買い求め、自ら神々に捧げた。皆が口々に山羊の立派さをほめたたえ、祝福してくれる。イスラム教への改宗者が続出して年ごとにさびれていく祭りに“新入り”が飛びこんできたことは、日頃ぼくを快く思っていない連中までを、大いに勇気づけたようだ。この日からぼくは正式に、一人前のカラーシャとして誰からも認められることになった。聖域で神が君臨してきた瞬間に感じた極度の緊張と、それに続く踊りの場での底知れぬエネルギーの爆発に強い感銘をおぼえて、ぼくはこの最初の旅を終えた。



再びカラーシャ族の一員となった

 卒業後2年半勤務した広告代理店を辞めて、ぼくが2度目の旅を実現したのは、最初の旅から帰って4年後の1982年のことだった。ムンムレット谷に戻ってきて、高台にあるなつかしい村を4年ぶりに見上げたとき、すでにチョウモス祭は始まっていた。再び山羊を捧げて、カラーシャの一員である証をたてるつもりが、その儀礼はもう終わってしまったのではないか……。不安な気持ちで木立ちを透かして村を見るが、ひっそりと静まりかえっている。と、急に喚声が聞こえて、子供たちが村から駈けおりてきた。いる、いる。初めのうちは誰だかわからなかったが、よく見るとどれもお馴染みの悪ガキだ。すっかりたくましくなって、重い荷物を奪いあうように運んでいく。

 村では、最も重要な浄めの儀礼がちょうど行なわれているところだった。なつかしさのあまり、ブンブールに飛びつく。「憶えているかい」ときくと、「もちろんさ、日本人の兄さん」と答えが返ってきた。そばで儀礼を待っている娘や息子たちは、予想よりずっと大人びていて、おみやげに持ってきた4年前の写真とは、別人のようだ。えっ、このチビはブンブールの孫だって……。

 4年間思い続けた家族との再会をすませると、噂を聞いた隣人たちが入れかわり立ちかわり訪ねてきた。ちょうどいい日に帰ってきたと、誰もがわが事のように喜んでくれる。言葉の感覚がすっかり錆ついていて、とんでもない単語が飛び出し、爆笑がおこる。やがて、ベークがやってきた。カラーシャ語の教授をはじめ、何もかも親身になって面倒をみてくれた親友である。育った文化はこんなにも異なるのに、片コトの会話だけで互いの心が完全に理解しあえる。この青年に会うために、ぼくはわざわざ戻ってきたのだ。ベークは一言も口をきかずに、ぼくの背中を抱きかかえる。その夜、犠牲の血を浴びて身を浄めたぼくは、再びカラーシャの一員となった。



“ぼくの社会”へ通い続けたい

 2度目の滞在は5ヵ月に及び、雪に閉じこめられる冬の暮らしと、春の喜びを全身で表現するジョシの祭りを体験した。それからのぼくは、日本に半年以上とどまることなく、ムンムレット谷へ通い続け、のべ1年2ヵ月以上ブンブールの家で暮らしている。

 人類学者でもジャーナリストでもないただの広告屋が、こういうフィールド・ワークを続けていても、直接的な利益はほんどんない。最近では村のドロドロした人間関係に巻き込まれて、不愉快な思いをすることも多くなった。それでもなお、ムンムレットに通い続けるのは、あそこにもう一つのぼくの社会があるからだと思う。その社会とは、長老会議の席で、外の世界を知っている“インテリ”として意見を求められたり、病人やケガ人の治療をしたり、後継者の絶えた歌や語りをお前のノートに記録しておいてくれと頼まれたりと、ぼくも一応の社会的な役割を負っているのではという感触もあるが、何よりも一緒にいたいと思える人たちが住む世界だということだ。

 この冬も再びチョウモスめがけて、ブンブールやベークの笑顔に包まれたくて、ぼくはムンムレットに帰るつもりである。