カラーシャ族の生活

祭りと儀礼に彩られた1年

丸山純

『もっと知りたいパキスタン』 pp.299-310 弘文堂 1987




はじめに

 北西辺境州のチトラル行政区は、ヒンズークシュ山脈を南北に貫流するクナール川の流域にひろがる旧藩主国である。北と西の境界はアフガニスタンに接していて、文字どおりインド亜大陸の“北西辺境”としての位置にあるが、風土的にも文化的にも、ここはもう中央アジア世界の一角といったほうがふさわしい。約16万人といわれる住民のほとんどがイスラム教徒で、ダルド系のコワール語が使われている。

 ところがこのチトラルには、土着の多神教をいまだに守りつづけている、ほんのひと握りの少数民族がいる。チトラルの南西部にある3つの谷に住む「カラーシャ族」がそれで、現在の人口は約2000人。馬頭をシンボルとした祭壇に降臨する神々に犠牲のヤギを捧げ、四季おりおりに各種の祭りや儀礼をおこなうので、周囲のイスラム教徒から「異教徒」(カーフィル)と呼ばれている。言語も彼ら固有のカラーシャ語で、コワール語とは類縁関係にあるのだが、チトラルの人間でカラーシャ語が話せる者はいない。

 カラーシャ族が居住地としているのは、アフガン国境の5000メートル級の山脈から発してクナール川へと注ぐ3本の川が刻んだ3つの谷(ルクムール、ムンムレット、ビリウ)である。極度に乾燥したクナール本流の大溪谷と異なり、これらの支谷は湿度が比較的高く、ビャクシンやヒマラヤスギ、マツ、カシなどの林が高度に応じて山腹をおおっている。森林限界の上は牧草も豊富で、初夏から晩秋にかけて家畜が放牧される。

 村は標高2000メートル付近にあり、冬の日照や夏の洪水、外敵の侵入などを考慮して、川から少しのぼった小高い南向き斜面につくられている。各村の人口は40人から250人ほどで、家は木材をふんだんに使った2階建てが多い。川沿いの河岸段丘の上には潅漑水路が縦横に走っていて、コムギやトウモロコシ、ヒエなどを栽培する畑がひろがる。村や畑の周囲にはアンズやリンゴ、ナシ、クルミなどの果樹が大きく枝を伸ばしていて、訪れた者たちに谷間の豊かさを強く印象づけている。

 このような恵まれた自然環境のもとで、カラーシャ族はほぼ自給自足に近い生活をいとなんできたわけだが、生業そのものの形態は、ヒンズークシュに住む他の山地民のものと、基本的にはそれほど大きな違いはない。しかしカラーシャ族の社会では、季節の変化に応じて農耕や牧畜に関するさまざまな宗教的行事がおこなわれるため、その暮らしぶりは、近隣のイスラム教徒とはかなり異なったものとなっている。

 ここでは、筆者がのべ1年半ほど滞在したムンムレット谷を中心に、祭りと儀礼にに彩られたカラーシャ族の1年を、四季を追って紹介してみたいと思う。

【注記】パキスタン北部山岳地帯の地名や民族名などは、かつての探検隊が各国語で書き記したものが、そのまま今日でも使われていることが多く、現地語による発音とはかなり異なる場合がある。たとえば、「チトラール Chitral」という呼び方を使うのは、英語が読み書きできる層に限られ、一般庶民の間では「チットラル Chitrar」または「チェットラウ Chetrau」が使われているようだ。これは、英語の発音が逆輸入されていると考えられる。

また、カラーシャ族の居住地では、コワール語の話者を通訳として介したため、コワール語を英語式につづった発音のほうが、一般には広く知られるようになっている。たとえば カラーシャが「ムンムレットMumuret」と呼ぶ谷を、コワール語では「バンボレットBamboret」とか「ブンブレットBumburet」と発音する。本節では、カラーシャ関係の固有名詞はなるべくカラーシャ語に近いカタカナで表記したので、現行の地図などの地名とは若干異なる場合があることをご了承いただきたい。




冬から春へ……春を告げる祭りキラサーラスまで

 毎年1月に入ると、ムンムレット谷はしばしば大雪に見舞われ、人々は本格的な冬の生活に入る。

 谷の日向斜面につくられている村では、降雪があっても数日後には溶けてしまうが、陽の射さない谷底の畑は、一面の根雪におおわれていて、秋に播いたコムギも雪の下に埋もれたままである。農作業のほうは春までほとんどすることがなく、人々はのんびりと暮らしている。女たちは終日手を休めずにヒツジの毛を紡ぎ、機織りに精をだしているが、男たちは燃料にする薪を集めに行ったり、冬の祭りで犠牲に捧げたヤギの皮をなめしたりするぐらいで、世間話に興じたり、雪のなかでおこなうゴルフのような遊びに熱中して毎日を過ごしている。

 ただし家畜の世話を担当する者たちにとっては、冬はもっとも大変な季節である。舎飼いしているウシとヒツジには、秋に準備しておいた飼料を与えるだけだが、ヤギはどんな悪天の日でも欠かさず放牧に連れて出なければならない。村にある家畜小屋から各自が所有するカシの林まで毎日連れて行き、1日に3回、木に登って枝を切り落として、枝先の柔らかい葉を食べさせる。

 2月の中旬、雪をかきわけるようにして、クロッカスに似た淡い紫色の花が顔を出すと、ムンムレット谷にある5つの村が、それぞれ定められた神に対して、春の諸儀礼を次々とおこなう。主神マハンデオ、種子と家畜をつかさどるインガオ、果実の女神クシュマイなどにヤギを捧げて、この1年間、カラーシャ族の土地に豊穣と安全をもたらしてくれるよう祈願するのである。

 ちょうどこの頃、仔ヤギが誕生する。秋に種オスを群れに戻す時期をコントロールしているため、2月から3月にかけて、出産が相次ぐ。そして4月になって畑の雪も消え、褐色だけだった冬景色のなかに薄いピンク色のアンズの花が咲くと、早春の祭り、キラサーラスがおこなわれる。

 祭りの第1日目は、新しくしぼったばかりのヤギの乳を各村の守護神に捧げ、さらに乳にトウモロコシの粉を入れて粥をつくって食べる。2日目は各村の代表者がインガオ神の祭壇に集まって、乳とチーズを神に捧げたのち、会食する。さらに深夜になってから、各家の家長がこっそりと畑に行き、誰にも見られないようにして穀物の種子を地面に埋め、豊作を祈願する。

【写真1】山の斜面を巧みに利用して建てられたカラーシャの伝統家屋。1階は物置きや家畜小屋、2階がバルコニーと住居になっている。

【写真2】切り落としたカシの枝に群がるヤギ。冬のあいだは1日3回、こうしてカシの葉を餌として与える。どのくらいの広さのカシ林を所有しているかで、何頭ヤギを飼養できるかが、ほぼ決まってしまう。

【写真3】マハンデオの祭壇。カラーシャの神々の多くは、馬頭をシンボルとした祭壇に降臨するが、馬頭はあくまでも降臨するための目印にすぎず、神はきわめて人間に近いイメージでとらえられているようだ。これらの人間的な神々はデワと呼ばれるが、その上には宇宙の造物主で、抽象的な存在であるデザウという至高神がいると考えられている。日常の儀礼はすべて、デワに対しておこなわれる。




春から夏へ……農作業の開始とジョシ祭、そして夏の放牧地へ

 キラサーラスが過ぎると、眠っていた自然が一気に目覚め、谷はみずみずしい緑に包まれて躍動を始める。そして、それまで禁じられていた農作業が解禁になって、谷のあちこちに犂を引くウシを怒鳴りつける掛け声が響きわたる。

 冬のあいだ休耕してあった畑が、2頭のウシが引く犂で耕されると、家畜小屋に溜まったヤギやヒツジの糞が肥料として畑に入れられ、再び犂耕される。そして、そこにトウモロコシの種を播き、種を地中に埋めるためにもう一度犂耕を繰り返す。2頭以上のウシを飼っている家はまれなので、男たちはウシを貸し借りするスケジュールの調整で忙しい。また、暖かい晴天の1日を選んで、ヒツジの毛を刈る。ヒツジの剪毛は、このほか8月と10月におこなわれる。

 女たちは、5月中旬に開催されるジョシの祭りのために、すべての衣装を新調する。冬のうちに紡いでおいた糸で美しい刺繍の入った帯や貫頭衣を織りあげ、宝貝を600個も縫い込んである独特の帽子をつくる。

 ジョシは、4日間にわたってさまざまな歌と踊りが盛大に繰り広げられる春の祭典である。祭りの第1日目は、女たちが野山に出かけて、歌い踊りながら黄色い花を集めてくる。そしてその晩、男たちが各家畜小屋で、冬のあいだ家畜を守っていた神を送って、新たに夏の守り神を迎える儀礼をおこなう。2日目は、集めてきた花で家々や神殿、家畜小屋などを飾りつけたあと、女たちが村のあちこちに点在する家畜小屋を1日がかりで巡って、踊りながらヤギの乳を集めてまわる。さらに3日目と4日目は、ムンムレット谷に住む800人を越すカラーシャ族のほとんど全員が大きな広場に集い、朝から晩までひたすら踊り狂って、春を迎えた喜びを全身で満喫するのである。

 ジョシの10日後、ムラッチワキ・ジョシという祭りで、新しくつくったチーズがマハンデオに捧げられると、季節は急速に夏へと移り、家畜たちはいっせいに、谷の奥にひろがる夏の放牧地へと上がる。標高3500メートル付近に放牧小屋がつくられていて、男たちは数週間のサイクルで交代して泊まりこみ、ヤギを連れて5000メートルを越す高地まで放牧に出かけたり、乳製品をつくったり、男だけの気ままな生活を送る。他の山地民は家族ぐるみで放牧地に上がり、

そこで夏村をつくることが多いようだが、カラーシャ族の社会では、女性の生理や出産を不浄視する赤不浄の風習が強く残っていて、神々の住む神聖な放牧地に女たちが立ち入ることは許されていない。したがって夏のあいだも、生活の基盤はあくまでも村にある。

 放牧地滞在中は、数十回にわたって、神々や妖精たちに家畜の安全や天候の安定を願う各種の儀礼がおこなわれる。

【写真4】カラーシャの女性が着る民族衣装は独特のもので、踝まである貫頭衣をすっぽりとかぶり、腰にぐるぐると帯を巻いて、さらに宝貝を縫い込んだ帽子とヘアバンドをかぶり、幾重にも首飾りをかけている。宝貝は昔から、近隣のイスラーム教徒の行商人が、はるばるラホールから仕入れて運んでくるという。

【写真5】女性がこもるための“産屋”。生理期間中は5日間、出産後は10日間、女性は村にとどまることが許されず、産屋に隔離される。産屋にこもっている者は極度に穢れた状態と考えられていて、食事や薪を差し入れるときも、直接手渡しをしないで、いったん地面に置いておこなう。産屋から村に戻るときは、真冬でも、近くを流れる水路の水で全身を洗い清め、洗濯したばかりの服に着がえる。




夏から秋へ……夏祭りウチャオと、収穫の開始

 家畜が放牧地に上がると、村は酷暑の時期を迎え、6月下旬には雪の下で冬を越したコムギが色づいて、たわわに穂首を垂れる。それを鎌で刈り取り、さらにウシに踏ませて脱穀し、風選するのは、村に残っている男たちの仕事だ。泉に棲む悪霊が穀物を狙ってやってくるので、これらの作業にあたっては、こまかい儀礼をして彼らを追い払わなければならない。コムギを収穫した畑は犂耕をおこない、ヒエを播く。

 女たちは、ジョシの直前に播いたトウモロコシ畑を潅漑するために、一O日に一度のわりで水路の水を畑に引き、さらに除草と保水を兼ねて浅く中耕する。炎天下で腰をかがめてツルハシをふるう作業はとてもつらく、広い畑はどこまで耕しても果てがない。その合間をぬって、収穫したクワとアンズを干して乾燥させるのも、女の重要な仕事である。

 この時期の放牧地では、チーズづくりが盛んにおこなわれている。しぼりたての乳を加熱し、そこに乳清を加えると、乳が固まってふわふわしたチーズができる。乳をしぼるのはヤギに限られ、搾乳は朝晩の2回おこなう。1頭あたり250ccほど採れるようだ。一家族あたり30〜40頭のヤギを所有しているのが普通だが、ごくわずかだが400頭以上持っている者もいる。ヒツジは採毛用としてわずかに飼っているだけで、平均10頭ほど。ウシは犂耕用の雄を1頭、乳牛を1〜2頭所有していることが多い。

 トウモロコシがすくすくと伸びて、谷全体が燃えるように鮮やかな緑色につつまれる7月中旬になると、村ではラットナットという、歌と踊りだけの祭りが始まる。毎晩どこかの村で若者たちが叩く太鼓が鳴り響き、人々は明け方近くまで踊りあかす。放牧地にいた男たちも交代で山から下りてきて踊りの輪に加わり、日本の盆踊りと同様、若い男女の出会いが生まれることも少なくない。

 ラットナットが1ヵ月間つづいたのち、ウチャオという夏祭りがおこなわれる。夕方、放牧地から運んできたチーズをマハンデオの祭壇に捧げて、夏までの豊穣や安全に対する感謝の意を表わし、チーズを皆で会食してから、夜明けまで盛大に歌と踊りを繰り広げる。たったひと晩だけの祭りだが、それまで禁じられていたトウモロコシや豆類、果実などの収穫を解禁するという重要な意味をもつ。

 ウチャオが終わると、秋が突然やってきて、トウモロコシの穂先が黄色く染まる。人々はまずトウモロコシ畑に混植してあるインゲンやエンドウなどの豆類を摘みとり、それからトウモロコシを刈り取る。女が茎から実を取り出すと、それを男が天日に干し、棒で叩いて脱穀する。茎は冬期のウシの飼料になる。

 刈り取ったあとは犂耕をしてからコムギを播くが、このように、トウモロコシ(春)→コムギ(秋)→ヒエ(夏)→休耕(冬)と、2年間を1周期として輪作をおこなうのが、一般的なカラーシャ族の農業のスタイルである。どの家も複数の畑を所有していて、輪作の周期を1年ずらし、3つの作物がその年に収穫できるようにしている。最近では収量も多く、味もいいことから、ヒエの替わりに早生種のトウモロコシを植える家も多くなってきた。

 また、秋のこの時期は、ナシやリンゴ、モモ、ブドウ、クルミなどの果実や、ジャガイモや玉ネギ、トマト、カボチャなどの野菜類の収穫もおこなわれ、ブドウ酒も各家で盛んにつくられる。

【写真6】カラーシャの太鼓、ダオ(左)とワッチ(右)。円筒形のダオのほうは、名称は異なるが、よく似た形状のものがパキスタン北部山岳地帯に広く分布している。砂時計型のワッチは、カラーシャ独特のもので、正倉院の細腰鼓の祖型ともいわれている。どちらも首から下げて演奏され、必ず一対で用いられる。

【写真7】ウチャオが終わると、ブドウの収穫が解禁になり、ブドウ酒づくりが始まる。普通は手で果実を搾って汁を採るが、一度に大量につくるときは、このような酒舟にブドウを山盛りにし、足で踏みつける。2週間ほど置くと、酒になる。ブドウは聖なる果実と考えられていて、各種の儀礼のときに、ブドウ酒を祭壇に振りかけたり、火に注いだりして、神々に捧げる。




秋から冬へ……秋祭りとチョウモス祭、そして冬の到来

 放牧地は下界よりひと足早く秋を迎え、九月に入ると降雪をみることさえある。ヤギが出す乳の量も少なくなって、毎日チーズに加工することができなくなり、バターづくりが開始される。数日分の乳を貯めて発酵させ、それを皮袋に入れて数時間揺すってバターを分離させ、さらにその残りの液体(バターミルク)を煮沸してカッテージチーズのようなチーズをつくる。そして10月の中旬、ついに胸ほどまで雪が積もるようになると、落ち葉を食べさせるために、すべての家畜を村に戻す。

 この頃の村は、農作業の追い込みで目の廻るほど忙しい。コムギのあとに播いたヒエやトウモロコシ、飼料用の豆類などの収穫と脱穀を次々と片づけ、さらに冬にそなえて薪も大量に用意しなければならないからだ。それでも11月の中旬になると一応のめどがつき、人々が待ち望んでいた秋の祭礼の時期がやってくる。

 まずおこなわれるのはプレチアイシという儀礼で、各氏族ごとにその年の豊穣と安全を感謝して、マハンデオにヤギを捧げる。さらに、結婚披露宴や家の新築祝いなどの行事があちこちの村で催され、歌と踊りと会食で楽しい夜が続く。これらの祝い事を催すことは、経済的負担が非常に大きく、末代まで語り継がれる名誉とされるが、富の偏在を防ぐ役目も果たしているといえよう。

 12月に入ると天候が不安定になり、雪が降りはじめる。そして12月9日から2週間にわたって、チョウモスというカラーシャ族最大の祭りがおこなわれる。この祭りにはカラーシャ族の宗教生活が凝縮されていて、牧畜や農耕に関する各種の儀礼や祖霊祭、通過儀礼、神迎えの踊りなど、連日さまざまな行事が繰り広げられ、そのほとんどに歌と踊りが伴う。とくに冬至直前の4日間は祭りのクライマックスで、村から部外者を完全に締め出し、西方からやってくるバリマインという強力な神を迎えて、ヤギを大量に捧げ、秘儀をとりおこなう。最終日には神が去り、男女が服を交換したり、仮装したりして、どんちゃん騒ぎとなる。

 チョウモス終了後は、ダウタトゥーという豆の祭りと、カガーヤックというカラスに豆を投げつけて豊穣を祈る祭り、さらにカンバウーチャックという雛祭りがおこなわれる。そして谷はすっかり雪に埋もれて、人々は静かな冬の生活を迎えるのである。

【写真8】 酸っぱくなった乳を革袋に入れて何時間も膝の上で揺すると、白い原バターの塊が分離する。バターをはじめとする乳製品は、カラーシャにとっての最高の御馳走で、来客があったときには、必ず出さなければならない。トマトやジャガイモなどの野菜が入ってきたのは、ここ3O年余りのことで、かつては豆類と乳製品だけがおかずだったという。

【写真9】チョウモス祭の最終日、2週間続いた緊張感から解放されて、カラーシャたちは心ゆくまで踊りと歌を楽しむ。服を交換した男女は顔に覆面をし、手拍子と歌に合わせて終日踊り続ける。




おわりに

 以上、独自の多神教のもとで自給自足の生活をつづけているカラーシャ族の1年を簡単に紹介してきたが、この10年ほどで急速に押し寄せた近代化の波に洗われて、しだいに彼らの暮らしぶりも変貌しつつある。農作物や果実などが換金できるようになり、確かに生活はこれまでと比較にならないくらい便利で楽なものになった。金さえ出せば、食料も肥料も、労働力さえも手に入る。もう、必死で神々にすがらなくても、生きていけるようになった。

 とくに若者たちに顕著になったこの新しい考え方が、伝統的な生業の在り方を崩し、村のなかの人間関係を変え、祭りや儀礼を軽視する傾向を一段と強めようとしていることは間違いない。そしてパキスタンにあっては、「異教徒」(カーフィル)としてのアイデンティティの喪失は、即、イスラム教への改宗へとつながっていく。

 はたしてカラーシャ族がこれからどのような道を歩んでいくのか。20世紀後半を共に生きる仲間として、見守っていきたいと思う。