【2011年3月21日〜3月27日】
●パキスタン北西部で走行中の車2台が狙撃者に襲撃され、8人が殺害され15人が拉致された。
●襲撃はクラーム行政区のバガーン地区で起きた。5人が負傷した。この地域は、これまで宗教抗争が頻発してきた。
●狙撃者が最初の車に発砲して中にいた乗員数人が殺害され、その後車が放火されたと、地元政府関係者が述べた。その後2台目の車が、乗員ごとハイジャックされた。「攻撃者たちは2台の車に乗ってやってきた。発砲して逃げた。8人が殺害され、犠牲者の中には女性と子供もいる」と、地元行政官のファイザル・フセインが述べた。
●イスラマバードの『BBC』特派員のイリアス・ハーンによると、今回の事件は最近この地域のシーア派部族民とタリバンとの間に締結された和平協定が原因だという。和平協定は2月に、ハッカーニ組織のメンバーが保証人となって、パキスタン治安軍の介入で締結された。シーア派部族民が3年間にわたっし、タリバンをこの地域に入れないように抵抗していた。
●しかし他の地域で活動する過激派組織がこの協定を破棄させるために、何度も攻撃を行なっているという。3月中旬には、同じルートを走行中の乗り合いバスが、隣のハングで攻撃されて11人が死亡した。ちょうど1週間前には、北ワジリスタンから来たガンマンたちが、クラーム行政区のシーア派の住民20人を拉致した。彼らが解放されたという情報はない。
●今回の襲撃は、クーラム行政区からペシャワルを結ぶ幹線道路で起きた。和平協定が結ばれる、2007年11月以来、タリバンが道路を封鎖していた。
Convoy in Pakistan Kurram agency ambushed by gunmen●CIAが、しばらく中断していたパキスタンとアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈内での極秘作戦を、再び開始した。ビンラディンがここ数週間、過激派幹部と会うために国教を行き来しているという情報を入手したためである。
●(中略)情報源によると、、関係者たちは、パキスタンやアフガニスタン、サウジの多数の諜報組織から入ってくるビンラディンに関する諜報情報を重視しているという。ここ2年間、ビンラディンの動きや目的に関する信頼ある情報がなかった。しかし諜報関係者は今になって、過激派キャンプ内部から、非常に信頼性の高い情報が入ってきたと信じている。
●関係者たちは、ビンラディンがパキスタンやアフガニスタンの部族地帯でここ数週間の間頻繁に姿を見せていることに、「驚いている」という。
●この新たな展開から諜報関係者たちは、アルカイダが9.11と似たような攻撃を計画しているのではないかとみている。
●しかし『エイジアン・タイムズ』の調査やアルカイダのキャンプ内の情報からも、この動きには別の意図があることがわかった。ビンラディンが開催している会談の性質から、アルカイダが、ラシュカル・アル・ジル(影の軍団)を通じて、アラブ世界の革命とパレスチナの戦いに専念し、アフガニスタンにおける役割を新たに見直し作戦を練り直そうとしているのだ。
●7週間前に、ビンラディンがヘクマチアルと、アフガニスタンのクナールとバジョールとの間のジャングルで会ったと報告されている。この会談はヘクマチアルの内部組織にリークされ、ニュースはパジョールのパキスタン人過激派司令官幹部にとおして、北ワジリスタンの過激派キャンプ内に広がった。
●アフガニスタンの戦いの仲間でありながら、オマール師が率いるタリバンは、ヘクマチアルの意図を常に疑問視していた。いっぽうビンラディンや他のアルカイダ指導者たちは、オマールとは異なる見解をもつ。ヘクマチアルの代理人たちは米国人たちと直接活発に話し合いをしており、アフガニスタンのNATO軍と停戦協定を結ぶことに同意している。
●ビンラディンは1980年代にヘクマチアルとともにアフガニスタンでジハードを戦い、92年にスーダンにいた間も連絡を取り合っていた。90年代中頃にアフガニスタンに戻ると、ヘクマチアルの支配する地域に留まった。
●バジョールの会談に詳しい諜報情報源によると、ビンラディンは、ソ連のジハード時代にHIAのメンバーだったパキスタン人過激派司令官でサラフィー関係者との夕食会があったという理由のためだけに、ヘクマチアルと会うことができなかった。「話し合いは何か大きな戦略を話し合うためだったようで、ビンラディンはヘクマチアルをこれに引き入れようとしていた。ヘクマチアルの司令官たちがアフガニスタンのNATO軍と停戦協定を結び、ヘクマチアルの代理人たちが米国人と和平協定を結ぼうとしているためである」と、諜報情報源が買った。
●今回のビンラディンとヘクマチアルの会談が重要であることは、クナールとヌーリスタンでアルカイダ系の多数の過激派司令官が会談しているという情報をCIAとその特殊部隊が入手していた時期に起きたことからもわかる。ビンラディンは、今動けば危険であることは十分承知していたはずである。
●ビンラディンの計画やアルカイダの大掛かりな作戦がどのようなものなのかはまだわからないが、ビンラディンの動きはアルカイダ内部の分裂とその政策の変化から推測される。
●1980年代のソ連との戦いに始まる国際イスラーム過激主義は、大きく2つの思想に分けられるが、どちらも相反する目的を持ちながらも、自分たちのほうが正しいと見てる。これはパレスチナ人のスンナ派の学者だったアブドゥッラー・アッザーム博士と、ビンラディンの腹心のザワヒリとの間に、常に議論があったことからもわかる。
●アッザームはムスリムのジバードを通じて、ソ連と戦うアフガン人ムジャヒディンを救済しようとした。彼はムスリムの支配層を含むムスリム連合を信じ、ムスリム政権に対する革命を支持することはなかった。ヨルダン国籍のパレスチナ人でありながら、そしてムスリム同胞団出身であったにもかかわらず、アッザームは1970年9月のヨルダン国王に対するパレスチナ人の発起には、加わらなかった
●アッザームはサウジ王族と親しく、ソ連に対するアフガン抵抗運動のようなイスラーム武装運動の支持を受けることを重視した。欧米の専制に抵抗するために、ムスリムの支配者やイスラーム主義者と協力し合うことが大事と考えた。彼は戦略的に、他のものたちほど独断的ではなかった。
●アッザームが89年にパキスタンで暗殺されたあと、ザワヒリがイスラーム武装抵抗運動の唱道者となった(中略)。2つの思想学派からアッザームはこれまで批判されることもなく尊敬されていたが、ザワヒリはムスリム学者の主流や知識階級からは攻撃の的になってきた(中略)。
●最近アルカイダの幹部階級の中に思想的な対立があり、ザワヒリの主張が打ち破られた。スレイマン・アブ・アルガイスやサイフ・アル・アデルのようなアルカイダの重要な思想家や司令官などの主張が大きくなった。
●アデルは、9.11以後はアルカイダを頂点にするムスリム世界内の分極が重要であったが、特にアラブの改革という観点から、今ではアッザームの思想に戻り、欧米の独裁に対立するために、ムスリム世界に分極は必要ではないという見方が重要だと考える。
●このあとアルカイダは、ムスリム同胞団やパレスチナの組織と再び接触を開始し、ムスリム世界における欧米の力と戦うことを目指しはじめた。
●ビンラディンがヘクマチアルなどの過激派司令官とヒンドゥークシュの山中で会談したのは、アルカイダがムスリム世界全体が参加する、新たな戦いの計画の一部といえる。
●ヘクマチアルHIAは、エリート・ゲリラから成るアルカイダのラシュカル・アル・ジルの一部である。アルカイダはアフガニスタンや世界全体で再び作戦を活発にしようとしている可能性があり、重要な抵抗組織やイスラーム政治性等などとも協力していくことも考えられる。
●ビンラディンが突然表に出たことや、アルカイダの大きな作戦に対する恐れは払拭できないが、アルカイダが世界各地のテロに参加し、重要なムスリム組織と協力しあうようになることは、大いにあり得る。
Bin Laden sets alarm bells ringing