【2011年4月25日〜5月1日】


■パキスタンでビンラディン、米軍に殺害される[110501 Washington Post]

9.11首謀者でアルカイダ指導者のビンラディンが、日曜日にアメリカによる攻撃で死亡したと、オバマ大統領が日曜日の夜遅く発表した。

去年の8月に浮上した諜報情報により、パキスタンの奥深くにあった建物の中に隠れていたビンラディンに対して攻撃することを許可したという(中略)。

今回の攻撃で米国人に犠牲者はなく、米軍は「一般市民の巻き添えを避けるために最大のことをした」という(中略)。

オバマによると、作戦はハイバルパシュトゥーンフワ州のアボタバードで実施された。軍の駐屯所や避暑地として開発した英軍関係者にちなんで名前がつけられたこの地は、パキスタンの陸軍第二師団本部がある。

数ヵ月にわたって今回の作戦に関わってきた米政府幹部によると、特殊部隊が地上作戦を実施したという。「突入するかどうかの確信を得るために、数ヵ月間建物を監視していた」という(中略)。

オバマによると、2010年8月頃にビンラディンを突き止めることができる鍵をにぎったが、最終的に彼にたどりつくまでには「数ヵ月」かかった(中略)。

政府幹部によると、たった1人の男、ビンラディンに信頼されてパキスタンで活動していた世話人が鍵となったという。アメリカに拘束されている囚人から入った情報により、アメリカのアナリストはこの世話人の身元を特定するために数年費やした。この男はハリッド・シェイク・ムハンマドの元子分だった。この世話人を「特に注目していた」という。

囚人は「この男はビンラディンの信頼を得た数人にいる世話人の1人で、ビンラディンを守るために一緒に住んでいるかもしれない」と述べたという。しかし何年間は、彼を追跡することも本名もわからなかった。4年前にやっと鍵をつかみ、2年前にはこの世話人が仕事をしている場所を狭めることができたという。

そして8月に米関係者は、ビンラディンが隠れているかもしれないと思われる建物を探し出した。特注の建物で、12〜18フィートの塀で囲まれ、敷地と中の個人的な敷地の間には、いくつもの塀に取り囲まれている。3階のバルコニーさえもが、囲われている。約100万ドル相当の建物と思われるが、インターネットも電話も通じていないという。

「建物を見てショックを受けた」とこの関係者は述べ、「非常に特異な建物で、おそらくビンラディンのために、2005年頃に建てられたもののようだった」という。「ビンラディンの隠れ家がこんなものであるだろうと専門家が考えるもの、そのものだった」という。

2月中頃になると、オバマはこれがビンラディンのものであると確信する確かな証拠を得て、4月29日の朝、軍事作戦を最終的に許可した(後略)。

ohohohohohOsama bin Laden is killed by U.S. forces in Pakistan
Philip Rucker, Scott Wilson and Anne E. Kornblut

■グアンタナモ・ベイ・ファイル、ビンラディンのトラボラ脱出を書き換える[110126 Guardian]

(前略)『ガーディアン』が入手したドキュメントにより、ビンラディンがいかにトラボラから逃走したかに関する新たな事実が明らかになった。

2007年8月に記録された、グアンタナモの囚人であるハルン・シルザート・アル・アフガニの話によると、ビンラディンは彼が隠れていた山中の隠れ家から、モーラウィ・ユール・ムハンマドという地元パキスタン人司令官の協力で逃げ出したという。

この男は、北ワジリスタンのミランシャーで、2010年に何者かに撃たれて死亡した過激派指導者のようだ。モーラウィは普通モーラヴィと呼ばれ、デオバンド派の宗教学者に与えられた称号である。

このドキュメントによると、モーラウィ・ヌール・ムハンマドは2001年12月中旬に、アブ・トゥラーブというアルカイダの野戦司令官幹部と会ったあと、ビンラディンとザワヒリのために40〜50人の戦闘員を送り込んだ。

米軍は、ビンラディンは、国境で待ち構えていたパキスタン軍をかわして、トラボラを通ってパキスタンに逃げたと主張している。しかし「囚人2人と米政府関係者が入手した諜報情報によると、ビンラディンとザワヒリは同盟軍とアフガン軍が守る前線をすりぬけて北部をめざし、ジャララバード近くのアフガン人アワル・マリーム・グルという協力者の家に向かった。そこで「休息」したあと、馬に乗ってクナールに入り、そこで10ヵ月留まった。

(中略)さらにさまざまなエピソードがある。ハルン・シルザートによると、2002年にビンラディンの信頼を受けた部下がアブドゥル・ハディ・アル・イラキに会い、ビンラディンがトラボラの戦いの際この司令官から逃走資金として借りた7000ドルを返済したという。

その3ヵ月ほど前、ビンラディンはカンダハルの近くの村で開発プロジェクトを行なうために1万1000ドル近くの資金を提供しており、彼の豊富な資金が明らかになる。

この書類により、2001年の戦いの間のアルカイダ指導者の動きが明らかになる。あるレポートによると、ビンラディンは9.11の前日、ホーストにいた。また10月にはカブールのゲストハウスに滞在し、11月13日にカブール陥落が近くなると幹部たちと会合を開き、カブール北部に配置されていたアラブ人過激派を東部に撤退させることに決める。

11月30日までにビンラディンはジャララバードに到着し、地元の部族民司令官たちに10万ルピーをばらまき、信頼を勝ち取ろうとした。その後トラボラの山中に移動した(中略)。アルカイダ指導者がはたしてトラボラに滞在したかどうか疑う者もいたが、囚人のうちの何人かが、戦いの前と最中にここでビンラディンに会ったと述べている。イエメン人の医師、アイマン・サイード・アルバタルフィはビンラディンと2度話をしたことを説明し、このテロリスト指導者に、負傷者を治療するための薬を求めた。

別の囚人は、ビンラディンが夜間戦闘員たちに、「アメリカ人の爆撃は遠いところで行なわれているために恐れないように」と話したという。

また何人かによると、12月16日頃、米軍とともに戦っていた地元のアフガン人司令官との話し合いが失敗に終ったために、山越えしてパキスタンに逃走するためにガイドを組織し、戦闘員たちをいくつかのグループに分けたという。これらのグループのいくつかは戦場から逃走中に空爆され、多数が死亡した。パキスタン軍に過激派数人が逮捕されたが、ある囚人によると、パキスタンの諜報組織がアルカイダ戦闘員の逃走に協力した。

ビンラディンはこの脱出の前に、あわててトラボラを出たようだ。「ビンラディンはトラボラで自分のボディーガードと別れた」と、ある報告は簡単に報告する。別の者によると、「ビンラディンは自分が選んだ数人とともに、トラボラを突然去った」。

2001年の間、カンダハルを拠点としていたアルカイダ指導者の家族も逃走した。あるファイルによると、グアンタナモの囚人でビンラディンの個人運転手のサラーム・アフマッド・サリーム・ハムデンと娘婿が、「ビンラディンの3人の妻をアフガニスタンから脱出させた」という。

「一団はカンダハルを出て、パキスタンに向かった。国境でハムデンとムアターズが一行を別の協力者に引き渡し、彼らとクエッタまで同行した。ハムデンとムアターズはカンダハルに戻ろうとしたところを同盟軍に攻撃され、ムアターズは殺害され、ハムデンは逮捕された」という。

別の者たちは、裕福な協力者のおかげで逃走できた(中略)。

ビンラディンとザワヒリの居場所に関しては、あまり鍵となるものがない。パキスタン北部周辺を移動するさまざまなアルカイダ幹部に関する情報はあるが、「重要人物」に関する直接的な言及はない。

ある記録によると、ザワヒリは当初パキスタンの都市部に隠れようとした。しかし2003年3月、ハリッド・シェイク・ムハンマドが逮捕されると、ザワヒリは「これまでいた家から逃げて、南ワジリスタンのシャカイに移った」。

また2005年5月のメモによると、ザワヒリの住居は素朴な老人が所有する、とても良い場所に変わった。シャカイは南ワジリスタンの谷中である。2005年にパキスタンで逮捕されたアブ・ファラージュ・アル・リビは、2003年8月と2004年2月にアルカイダ幹部メンバーに会うためにシャカイに赴いている。アブドゥル・ハイディ・アル・イラーキも、この会議に出席した。彼は7月7日のロンドンテロと関連して、2007年にイギリスで逮捕された。

「2003年8月と2004年2月の間に、リビはシャカイを3度訪れた。シャカイで彼はアルカイダのシューラ議会に出席し、戦闘員たちに資金を配布。ここでアル・イラーキと会った」。

ドキュメントには、パキスタン西部でさまざまな組織や幹部指導者たちが活動し、欧米の戦略家たちがイラクに気を取られている間に、アフガニスタンを始めヨーロッパやアメリカを含む世界各地で攻撃を計画したり、実施していた様子が描かれている。パキスタンの難民キャンプで訓練も行なわれていた様子が、ハルン・シルザードのメモから明らかになる。

2005年から2007年のアルカイダの訓練プログラムは、パキスタンの南ワジリスタンにある3つの場所で実施されていた。

シルザードが捜査官に語ったところによると、彼は2002年から2006年の間はペシャワルを拠点としたが、絶えずシャカイ、バジョール、ジャララバードの間を行き来していた。彼の結婚資金はアルカイダ指導者が準備し、1万ルピーが与えられた。2006年になると、アルカイダは中国製の対空「ロケット」を入手した。

メモには、アルカイダが何度も大量破壊兵器を入手しようと様子が描かれる。アブ・ファラージ・アルリビのメモによると、2004年に過激派はすでにヨーロッパである機器を入手したが、それを使用できる人間がいなかったという。ビンラディンが逮捕または死亡した際に、アメリカで使用する予定だったと、あるアルカイダ幹部が述べた。

他と同様、ドキュメントは非常に曖昧で、憶測や伝聞に基づいたものが多い。諜報を扱う者の無知が露になる部分も多い。ある囚人は、アフガニスタン東部の「ワッハーブ」族だとされている。ワッハーブ主義はスンナ派の学派であり、中東地域を中心とする保守的なイスラーム主義である。

smellGuantnamo Bay files rewrite the story of Osama bin Laden's Tora Bora escape

■タリバンの脱獄に「内部協力者」[110426 BBC]

アフガニスタンの法務省大臣が、カンダハルの収容所から脱獄した488人は、内部の人間の協力を受けていたはずだと述べた。

ハビブッラー・ガーレブがカルザイ大統領に、タリバンの脱獄は地元の治安部隊と外国軍に責任があると述べた。ガーレブによると、360メートルのトンネルの出発点だった家屋は10週間前に捜索したが、不審なものはなかたったという。月曜日の捜索で、71人が再逮捕された。サルボサ収容所の責任者のグーラム・ダスタギール将軍が、脱獄者は隣りのパキスタンに逃げたと述べた。

タリバンによると、囚人541人がトンネルを利用して脱獄し、そのうちの106人が司令官で、うち4人がカンダハルの元責任者たちだったという。

日曜日の夜に幅1メートルのトンネルが出現した収容所の政治犯収容所は、大きな広場のようで、囚人は自由に独房を行き来でき、鍵も扉もなかった。

しかしグーレブによると、各独房の囚人はトンネルが始まる部屋に入ることはできなかったはずだという。いっぽうトンネルの出発点の民家から囚人を運びだすための「大きな車列」は、収容所からも見えたはずだという。最初の報告によると、「1つのトンネルを通って囚人が大脱走したのであれば、収容所内に協力者がいたことになる」。

サルポサの囚人で、タリバンによると脱走を計画したと主張されているムハンマド・アブドゥッラーによると、「友人」たちが事前に独房の鍵のコピーを入手したと述べ、警備員たちの協力を臭わせた。

グーレブは収容所の警備を担当していたカナダや米軍を非難し、なぜ自分たちの足下が掘られているのに気がつかなかったのだろうかと疑問を表した。「トンネルが発見された家は、2ヵ月半前に捜索された」。「トンネルから掘り出された土はどこかに運ばれたために、見過ごされたようだ」。

タリバン報道官のザビウッラー・ムジャーヒッドが語ったところによると、自分たちは「正式な発掘機器を持ち」、「専門家の協力を得ていた」という。トンネルから掘り出された土は少しずつ運び出され、「マーケットで売った」。

治安国家委員会のタヒール・ムハンマド将軍が、最近タリバンが何らかの謀略を企てているという報告が何度も入ってきていたと述べた。「タリバンが、囚人を脱走させようとしているという根拠があった」という(後略)。

ohAfghanistan: Taliban 'had inside help' for jailbreak

■グアンタナモ・ベイ・ファイル アルカイダ暗殺者、「M16の工作員」[110426 Guardian]

米軍のグアンタナモ収容所にいる囚人に関する極秘ファイルによると、2002年にパキスタンのキリスト教教会と高級ホテルを爆破したとされているアルカイダ工作員は、当時イギリスの諜報組織のために活動していた。

アルジェリア国籍のアディル・ハディ・アル・ジャジイリ・ビン・ハムリリは「アルカイダの仲介人、世話人、誘拐犯、暗殺者」で、2003年にパキスタンで逮捕され、その後グアンタナモに送られた。

しかし『ガーディアン』が入手した、グアンタナモの759人の「評価」ファイルのひとつであるハムリリのファイルによると、彼は同時にイギリスとカナダの諜報組織のために働いていた。

2003年6月に逮捕されたあと、バグラム収容所に収監され、CIAによる調査を受けた。そして「カナダとイギリスの諜報組織に重要な情報を隠し、アメリカやアフガニスタン、パキスタンにとっては脅威となる人物」であることがわかったという。

『ガーディアン』と『ニューヨークタイムズ』は、収容所に送られた囚人多数に関するリークされた資料に基づき、いくつかの報告を行なっている(中略)。

ファイルによると、彼は9.11以後ペシャワルで絨毯のビジネスを行ない、ドバイに輸出していた。しかしCIAは、このアルジェリア人はM16とカナダの秘密諜報組織のインフォーマントで、二重スパイだった。イギリスとカナダは2000年12月に、「アフガニスタンとパキスタンで活動するアルカイダ系テロ組織のメンバーと関係があったために」ハムリリを雇った。

ハムリリがどのような情報を隠したかは明らかではないが、このアルジェリア人と当時パキスタンであった大きなテロ攻撃との間の関係が明らかになっている。

ハリッド・シェイク・ムハンマドは査察官に、ハムリリが使用していたと思われる「アブ・アディル」が、2002年3月に起きた、イスラマバードの外交官区にあるプロテスタント協会に対する手榴弾攻撃を首謀したと述べている。この攻撃で米外交官とその娘を含む5人が死亡した。

またアブ・アディルはその年の12月のパンジャーブ州の教会攻撃も首謀し、女子3人を殺害した。この攻撃のために、30万ルピーが与えられたという。この攻撃は、以前はラシュカル・ジャングヴィ軍団の仕業とされていた。

これとは別に米諜報資料によると、ハムリリは2002年5月に起きた、フランス人潜水艦技師11人とパキスタン人2人を殺害したカラチのシェラトンホテルの外で実施された爆弾事件に、「関与していた可能性がある」という。

しかし去年1月に釈放されたこの35歳のアルジェリア人に関する諜報情報は、グアンタナモ・ファイルの他の文章同様、多くが過ちである。

いくつかは、拷問により得られた情報である。ハリッド・シェイク・ムハンマドは逮捕された最初の月に、タイにあったCIAの「ブラック・サイト」で、183回「水攻め」にあった。

ハムリリとカラチのホテル爆弾事件との関係に関してはほとんど証拠はなく、彼が絨毯の商売をしていたことくらいしか、証明できるものはない。

唯一明らかなことは、ハムリリが数十年の間ジハードの地下組織の人間だったとこである。この組織はパキスタン北部とアフガニスタンから、北アフリカにまで広がっている。アルジェリアのオランから1986年、11歳のときに父親の家を出て、アフガニスタンでソ連軍と戦った。その後、過激な「タキフィール」組織に入り、アルジェリアの市民戦争で戦うために戦闘員を集め、名声を得た。

タリバン政権時代は外務省の通訳として働き、その後タリバンの諜報組織に入り、9.11前後はパキスタンとアフガニスタンの間を行き来した。

去年1月に、ハムリリとハッサン・ゼミリはアルジェリア政府に引き渡された。その後彼らがどうなったかは、明らかではない(後略)。

hoonGuantnamo Bay files: Al-Qaida assassin 'worked for MI6'

■アルカイダの「アフガンナンバー2」アブドゥル・ガーニ殺害される[110426 BBC]

アフガニスタンの国際軍によると、アルカイダ幹部指導者のアブドゥル・ガーニを殺害したという。このサウジ国籍の男は、パキスタンとの国境近くのクナールで、2週間前に殺害されたという。

アブ・ハフス・アルナジュディとも呼ばれるアブドゥル・ガーニは、部族民指導者や外国人を標的とする攻撃を計画したり、訓練所を運営していた。

同盟軍によると、ここ数ヵ月の間にアルカイダ指導者25人以上を殺害したという。

アブドゥル・ガーニは、カルザイ大統領の腹心だった、東部の部族民指導者マリーク・ザリンの殺害にも関与していた。ザリンは、ガーニが死亡した当日の朝、自爆攻撃により他の9人と一緒に殺害されている。

ISAFによると、アプドゥル・ガーニはクナール州全体の治安軍の前哨基地を標的とする抵抗組織を支配していた(中略)。NATOは2007年以来、ガーニを追跡していた(後略)。

hoonAl-Qaeda 'Afghan number two' Abdul Ghani killed - Nato

Sniffed Out By Trail Dog 0-1, 2003 - 2011.